坂東眞砂子

689 名前:本当にあった怖い名無し 投稿日:2007/04/14(土) 13:33:55
古いネタだが、子猫殺しを告白するエッセイを新聞に載せた坂東眞砂子の弁明。

私は人が苦手だ。人を前にすると緊張する。人を愛するのが難しい。だから猫を飼っている。
そうして人に向かうべき愛情を猫に注ぎ、わずかばかりの愛情世界をなんとか保持している。
飼い猫がいるからこそ、自分の中にある「愛情の泉」を枯渇させずに済んでいる。
だから私が猫を飼うのは、まったく自分勝手な傲慢(ごうまん)さからだ。

さらに、私は猫を通して自分を見ている。猫を愛撫(あいぶ)するのは、自分を愛撫すること。
だから生まれたばかりの子猫を殺す時、私は自分も殺している。それはつらくてたまらない。

しかし、子猫を殺さないとすぐに成長して、また子猫を産む。家は猫だらけとなり、
えさに困り、近所の台所も荒らす。でも、私は子猫全部を育てることもできない。

「だったらなぜ避妊手術を施さないのだ」と言うだろう。現代社会でトラブルなく生き物を飼うには、
避妊手術が必要だという考え方は、もっともだと思う。

しかし、私にはできない。陰のうと子宮は、新たな命を生みだす源だ。
それを断つことは、その生き物の持つ生命力、生きる意欲を断つことにもつながる。
もし私が、他人から不妊手術をされたらどうだろう。
経済力や能力に欠如しているからと言われ、納得するかもしれない。
それでも、魂の底で「私は絶対に嫌だ」と絶叫するだろう。

もうひとつ、避妊手術には、高等な生物が、下等な生物の性を管理するという考え方がある。
ナチスドイツは「同性愛者は劣っている」とみなして断種手術を行った。
日本でもかつてハンセン病患者がその対象だった。

他者による断種、不妊手術の強制を当然とみなす態度は、人による人への断種、不妊手術へと通じる。
ペットに避妊手術を施して「これこそ正義」と、晴れ晴れした顔をしている人に私は疑問を呈する。

エッセーは、タヒチでも誤解されて伝わっている。ポリネシア政府が告発する姿勢を見せているが、
虐待にあたるか精査してほしい。事実関係を知らないままの告発なら、言論弾圧になる。

 

「子猫殺し」を語る――生き物の生と死を幻想から現実へ
「子猫殺し」を語る
生き物の生と死を幻想から現実へ