笠地蔵

508本当にあった怖い名無し:2013/05/06(月) 15:03:55.75
昔話でいうと、『笠地蔵』についての考察をいろいろ見ていたら後味悪かった。
血腥い要素や理不尽な展開がなく、子供へも安心して聞かせられる“美しい日本の昔話”
として扱われ、小学校低学年の国語の教科書に載っていたりもするけど、
案外そうでもなく、今のあらすじは教訓誘導的で胡散臭い。

現代で語られる一般的なストーリーは、貧しい老夫婦のお爺さんが
正月準備のために町へ笠を売りに出かけ、しかし思うようにいかず売れ残り
帰り道で雪をかぶったお地蔵さんに笠をかぶせ、
足りない分は自分の手拭い被りをほどいて掛けた。
家に戻ってお婆さんに話すと、「それは良い事をした」とお婆さんも賛同する。
大晦日のその夜、お地蔵さんたちが年越しの食糧や金品を運んでくれ、
去っていく姿を目撃した、というもの。

ところが、各地に伝わるバリエーションを見渡すと、大きく2点(3点)で異なるVer.も多い。


509本当にあった怖い名無し:2013/05/06(月) 15:06:09.64
まず、売れ残った笠を被せるだけならどっちみち不要になった廃品処理で
こちらの懐は痛まないが、

正月用品を調達すべく藁細工や鏡などを町へ売りに行く
しかし道中で雪に埋もれたお地蔵さんを見かける
忍びなくなって折角手にした売上げ代金で笠を買いお地蔵さんに被せて手ぶらで帰る、
というパターンが結構ある。

そして、それに対するお婆さんの反応は「何考えてるんだ!」と怒り散らすもので、
いわゆる「心根の優しい善良な爺さんと、物欲の強い意地悪婆さん」の構図になっている。

しかし現代人の感覚で客観的に見ると、お婆さんの言動は世俗的・現世利益的とはいえ
家計を預る主婦としては至極全うで、なけなしの物品を売ってまで
せっかく用立てした年越し準備の金を
思いつきでふと実益の無い地蔵信仰に寄進するお爺さんの態度は、
ある意味 狂信的めいてもいる。
それを良しとするのは、教材とするにはかなり精神性の入った仏教説話の色合いを帯びている。

まして、鏡のケースでは、貧家の生活に必須でない奢侈品とはいえ、
婆さんにとっては貧しい生活を切り盛りすることに忙殺される中で
「女」としてのささやかな装いを楽しめる瞬間の品、
おそらく思い入れも深い嫁入り道具だったのではないか。
年越しの工面にも困り、意を決してそれを手離し爺さんに託した挙句が手ぶら帰りでは、
そりゃ怒り心頭なのも当然だろう。
あと、「鏡」という要素は神道で崇められる御神体も連想され、
それを売り払って地蔵菩薩への信心に用いる構図は、なんとなく興味深い。


510 本当にあった怖い名無し:2013/05/06(月) 15:08:00.64
また、地蔵たちの恩返しは、夜中に荷物を運んできてくれるVer.だけでなく、
笠が足りなかった地蔵の一体は家の中へ持ち帰る
その地蔵の体(鼻の穴・腹が割れる等)から米や砂金などが溢れ出る
でも強欲な婆さんがもっと出そうと蹴りつけたら出なくなってしまった、
などのパターンもある。

金品を運んでくるVer.にしても、「深夜」「地蔵」という要素に加えて
話によっては、もたらされた金品は「大樽に入っていた」(※昔の棺桶は寝棺より座棺が主流)・
感謝した老夫婦の家からは「手を合わせ念仏する声が聞こえていた」といった表現があったりする。

笠地蔵は、正月に訪れた歳福神から恵みを授かる円満な形での
客人(マレビト)信仰に根ざしたものとする民俗学的な分析もあるけれど、
必ずしも円満な形ではなく
最初は外部の技術・情報で利益をもたらしてくれていた居候の客人とも、
後に何らかの原因で揉め殺害したことにより恩恵が止まった、
もしくは最初から六部殺しのようなマレビト殺し譚で
寒村に泊めた旅の僧侶を殺して路銀用の金品を強奪した話を婉曲化・美化した物語、ともとれる。


511 本当にあった怖い名無し:2013/05/06(月) 15:10:06.66
あるいは、居並ぶ「地蔵」に、水子供養の寓意を見る説もある。
貧しい老夫婦で、今まで生まれた子も栄養失調や病気で流死産or乳幼児期に次々と失い
面倒を見てくれる跡継ぎも、十分な蓄えも無いまま老境を迎えた身の痛切さ、
死んでいった子を回想し、もはや来世への信仰に託すだけとなった身の無常を描いたもので、
地蔵が食糧を運んでくれるラストは物語の救いとして付け加えられたファンタジーに過ぎないと。

これも、穿った見方をすれば、さらに後味の悪い想定もある。
六部殺しで有名な「こんな晩」の類型には、旅の坊主ではなく、夫婦間の子を次々に間引きし
やっと生活が楽になったところで育てることにした末っ子がこの台詞を言うパターンもある。
「最初の数人は間引き」「最後の子だけ跡継ぎにして育てる」という要素は、
並んだ地蔵の一体だけ別格で、自らが被っていた手拭いを譲る・家へ持ち帰るという展開と重なる。
そして、その別格だった子も結局は死に(蹴って財宝が止まるVer.だと虐待死も連想させる)、
身寄りのない貧しい老夫婦だけが残った、という何とも言えない虚しい境遇。

後半の民俗学的分析はまぁ、こじつけ解釈的な部分も多分に含まれているかも知れないけど、
上澄みを抽出した「子供向けの美しい物語」としてだけ思っていると
それにまつわる諸論を聞いたとき、愕然となる。