萱笠(山本周五郎)
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612:萱笠 1/3:2013/05/11(土) 22:28:29.57
- 山本周五郎の短編時代小説「萱笠」
徳川家康が天下統一に向けて戦に明け暮れている時代が舞台。
武家の男性が戦で討ち死にするのはありふれた死因。足軽長屋に暮らす女性たちが針仕事をしながらぺちゃくちゃ喋っている。
彼女たちは足軽の妻や娘・妹たちで、妻たちは「自分の夫は今回出世した」
「うちのは殿様から直接声をかけられる立場になった」と自慢しあい、
若い女たちはやはり足軽の婚約者の身を案じながら、
「もし彼が今回の戦で死んだら、自分は結婚前だが○○家の嫁として舅姑に仕えて一生過ごしますわ」と、
殊勝なことを話している。主人公のあきつ(足軽の娘だが、父は戦死、母も死んだ孤児、21歳で、当時では婚期を逃した女性)には
一切男気がないのだが、ふとした弾みで自分にも言い交わした相手がいると嘘を吐いてしまう。
「誰?誰?」と問い詰められて、「吉村大三郎様」と名を挙げる。
彼は27歳の足軽で(これも婚期を逃している)、武芸には長けて役職もあるが、酒飲みで飲むと暴れ、
また女嫌いを公言して周りの進める縁談も断っている。
そのため婚約者などもいないだろうから、方便として使ってもよいだろうととっさに計算したのだ。
聞いた女性たちはちょっと引いているが、「まあ、武芸の評判は高い方ですものね……」と言う。
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613:萱笠 2/3:2013/05/11(土) 22:29:49.10
- 他言を禁じたが、もちろん話は漏れる。
ある日、上品な老婦人があきつに声をかけてきた。大三郎の母親であった。
嘘がばれたと焦るあきつに対して、母親(より女)は、
「あなたが息子の許婚と聞きました。これまで伝手を頼ったり、自分でも頼み込んだりしては
息子に嫁いでくれる女性を探したが、見つからなかった。まさか、息子が誰かと直接言い交わすことなど
ないと思っていた。しかし失礼ながら周囲の評判を伺ったり、自分でも様子を見たりして、
この娘さんなら息子は添い遂げるのではと喜んだ」
と挨拶してきたのだ。出征中の大三郎をよそに、話はどんどん進み、あきつは大三郎の家に嫁として暮らすこととなる。
より女は喜び、良い姑としてあきつに優しく家事を教えてくれる。
あきつは自身の嘘に押しつぶされそうになりながらも、
姑に尽くすことがせめてもの埋め合わせとなるのではと一生懸命家事に勤める。大三郎は畑を持っていた。あきつは不在の間その隅に野菜を植えたいと姑に願うと、
姑は「息子は本人以外には畑に手を出させない。野菜を作るのが目的ではなく、
耕す土に現れる自分の真の姿を見つめたいそうなので。ただ、伴侶のあなたなら大丈夫よね」
と許してくれる。
あきつはまた気が咎めながら、自身も自らを見つめたいからと畑仕事を続ける。大三郎は毎年萱笠を自分の手で編んで作っていた。そのことについても姑は、
「頭に乗せるものを作るには引締まった心で作らねばいけない」と大三郎が話していたと語る。
その心栄えの素晴らしさに、あきつは日に日に大三郎に心惹かれるようになっていった。
姑はその笠を畑仕事時に使うようあきつに勧めるが、
あきつは「そのようなもったいないことはできない」と固辞する。
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614 :萱笠 3/3:2013/05/11(土) 22:32:01.74
- 戦場の大三郎から姑に向けた手紙が届く。
「自分には結婚を約束した女性などいない。ただ、母上が気に入っているのなら
そのまま家に住まわせておいて下さい。自分が帰ってから色々はっきりさせます。
このことはその女性には秘密にしておいて下さい」
姑は「ほら、息子は照れちゃってこんなこと書いてよこしたのよ」とあきつに見せるが、
あきつは(今では好きになっていた)大三郎本人に嘘がばれたと血の気が引く。
彼が戻ったときは罪を認めてひたすら詫びよう、それまでは姑に尽くそうとまた決意する。ある朝、畑仕事をしているあきつを姑が呼びに来る。
息子が帰ってきた、と言われ、とうとうこの日が来たかと心重く家へ入る。仏壇から線香の煙が立ち上っていた。大三郎は戦死して、『魂となって帰ってきた』のだ。
「討ち死にした息子を天晴れと思ってくださいね」と語る姑。
あきつは、心の中で詫び、
「魂となったあなたは、私の本当の姿がわかりますね。私はあなたの妻として、心からお母様に仕えます」
と誓う。そしてあきつは、萱笠を手に取る。不思議がる姑にあきつは、
「旦那様にねだりましたの。私があの方の魂を頭に乗せることを許してくださいましたわ」
と微笑んで話す。冒頭の今の世なら社宅での旦那自慢牽制しあいから、主人公の行動、『彼はわかってくれる』的なラストまで、
「女の嫌な部分」のオンパレードで、しかも結局お前は真実を明かさないまま今後も一生過ごすつもりなのか、
とむかついた。そして不思議なのがこの短編は「続日本婦道記」シリーズの1篇として、
褒められるべき女性の話的な位置づけにあるらしいこと。
時代もあるのだとは思うが、釈然としない。