仁顕王后閔氏

632本当にあった怖い名無し:2013/09/11(水) 09:48:44.30
李氏朝鮮の第19代目の国王、粛宗の王妃である仁顕王后の人生。

彼女は名家の生まれで、粛宗の母明聖王后の推薦により入内し、
1681年に王妃となった。
しかし、彼女の家は西人派と呼ばれる派閥に属していた。
これが彼女の人生を悲惨なものにしていく。

西人とは、李氏朝鮮時代の官僚の派閥で、
漢陽(現在のソウル)の西側に住んでいたためこう呼ばれていた。
彼らが対立していたのが、東側に住んでいた南人で、
ふたつの派閥は朱子学の解釈と政権で激しい争いを繰り広げていた。


633本当にあった怖い名無し:2013/09/11(水) 09:55:55.14
しかも仁顕王妃は不妊で、結婚してから六年間子供を産めなかった。
その原因の一端を担っていると言われるのが、
夫である粛宗が、南人派の女官出身である妾、張氏を溺愛したことである。
しかも、彼女は王子を出産。
(その子が後の20代国王景宗となる。両親に似ず賢帝との誉れ高し)
その子は立太子され、張氏は権勢を振るうこととなる。

さらに仁顕王妃の不幸は続き、
張氏と南人派の策略により廃位され実家へ戻されてしまう。

南人派によって没落した実家は頼れず、彼女の生活は酷いものだった。
冷たい風の吹きこむあばら屋で糸を紡ぎ、刺繍や読書をして
まともな食事も取れず、粗末な着物で過ごした。
周囲に住む民は、かつての王妃の没落ぶりに涙し、
やがてその声は粛宗の耳にも届き、
ちょうどうるさい南人派を排除して王権を取り戻したかったため、
王妃を呼び戻す。

しかし六年間の貧しく惨めな暮らしは、良家の娘として
何ひとつ不自由しない育ちの彼女にとって到底耐え難いものであった。
まともに栄養も取れず暮らした結果心臓を病んだ王妃はすぐに死んでしまう。

まあ張氏もその後処刑されるし両成敗なんだが、
生きてるうちが悲惨で…しかも粛宗のアホの都合で
廃位されたり呼び戻されたり大変すぎ。