遠い記憶(高橋克彦)

782 名前:本当にあった怖い名無し 投稿日:2007/07/05(木) 00:12:37
高橋克彦『赤い記憶』より「遠い記憶」

男が三十年ぶりに、昔住んだ盛岡を訪ねた。
とはいえ、小学校にあがるまでのことで、
ほとんど記憶がない。思い出探しではなく、
仕事の一環として、やってきたまでのことだ。

母に今回の旅のことを話すと、激しい嫌悪感を
露にした。母は盛岡の話をするのが好きじゃない。
「嫌な思い出がある」いつもそう言って、口をつぐんで
しまう。

取材のために、案内役に地元の女性記者を部下にして、
盛岡を回る。情けないことに、どの光景にも見覚えが
ない。
「三十年ぶりですもの、景色は変わってしますわ、でも、きっとあなたにも思い出の場所があるはずよ」
女に連れられて方々を巡るうちに、男は徐々に、不確かながらも過去の断片を取り戻すことができた。

男は滞在を数日のばすことに決めた。自分のルーツを探ることも目的だが、
故郷なまりの女記者に、徐々に惹かれつつあったことも理由の一つだ。

二人でタクシーに乗って、彼の住んでいた町を探しているうちに、男の脳裏に様々な記憶が蘇ってくる。
「運転手さん、そこ右、そこ左、そう、そのまま」
行き着いた先は、一見の空家だった。男は歓声を挙げる。
「ここだよ!僕は昔ここに住んでいたんだ」


783 名前:本当にあった怖い名無し 投稿日:2007/07/05(木) 00:13:18
二人は門をくぐり、男は懐かしそうに、空家の中を歩いて回る。
「ここにテーブルがあって、そこには本棚、あそこに小さな絵がかかっていて……」
「ここには?」
女は部屋の一角を指した。
「そこには勉強机が……」
なぜ、幼稚園児の彼に勉強机が用意されていたのだろう……。
「そう、私の机があったの」
男は混乱し、めまいを覚える。

「ここはあたしの家よ」
男には今のテーブルに腰掛け、新聞を読む父の記憶がある。
「わたしの母を抱きにきていたの。スナック勤めの母を、あなたのお父さんが囲っていたのよ」
情景が浮かんでは消える。そうだ、父は度々、この家に彼を連れ出した。
父と愛人が寝室に消えると、少し年上の女の子が、彼をかまってくれていた。
その子の母はとても優しく、少年の頃の彼はこの家に来るのが一番の楽しみだった。

「そうだった。君のことも思い出したよ。僕は君が好きだったんだ。なんでもっと早く
言ってくれない。人が悪いよ」
「あなたに思い出してもらうことに意味があったのよ」
女は寝室の襖をスッと開いた。
男は、なぜか反射的に顔をふせ、冷や汗をかく。

「目を伏せちゃダメ!あなたしか、あの時なにがあったのか知らないのよ!思い出して!」
「いやだ!そこにはおばちゃんが紐でぶらさがっているんだ!」
幼かったとはいえ、ここまで記憶が失われた理由が分かった気がした。

あの日、男は母に叱られて、家を飛び出した。自然と、足は父の愛人の家に向かっていた。
おばちゃんは優しい。お姉ちゃんにも慰めてもらえる。そう思ったのだろう。
家は静まりかっていて、寝室で、遺体を見つけた。垂れ下がる足に、肩がぶつかって
ブラブラと揺れた。

芯から冷える寒気とともに蘇った。遺体の向こう側の暗がりに、恐怖と憎悪に燃えた目で、私を見つめる母の顔を。


810 名前:本当にあった怖い名無し 投稿日:2007/07/05(木) 09:48:41
>>782
ごめん、この話は結局自殺のはずの「優しいおばさん」は実は
男の母親が殺していて、その現場を幼かった男が見てしまい
ショックで当時の記憶を無くしてしまっていた・・ってこと?

818 名前:本当にあった怖い名無し 投稿日:2007/07/05(木) 11:30:40
>810
連作に共通するテーマとして「記憶の不確かさ」っていうのがあるから、それは分からない。
それがまた後味悪い。

話はそこでプッツリと途切れていて、果たしてそこに母は居たのか、
それとも連想されたイメージがオーバーラップしているのか、定かじゃない。
母から逃れるために家を出たのに、先に着いて殺人を犯す時間なんてあったのか、
子供の足だから有り得るのか、なぜ息子の行く先を知っていたのか、
殺してから首を吊るなんて面倒なことをしたのか、母が殺したのか、
母も遺体を発見しただけなのか、結局は分からない。
その前の、友人の妹の話も同じく、結局は何も分からない。

ちなみに『赤い記憶』収録作品は上のダイジェストだと、暗い側面だけをピックアップしているけれど、
実際は「記憶」と「過去」に関する活き活きとした描写が実にリアルで面白い。
主人公が記憶を手繰り寄せる時、つい読者も手を休めて過去を振り返るような、
優れた文章になっているので、ぜひオヌヌメ。

 

緋(あか)い記憶 (文春文庫)
緋(あか)い記憶 (文春文庫)