ホーム » 小説 » 小説/わ行 » 私のいる場所(小池真理子)

634 名前:1/3 投稿日:04/06/15 02:35
小池真理子『私の居る場所』

ある日加奈子は、おはぎを近所の野口さんという家に届けるよう姑に頼まれ、家を出た。
結婚し、東京から田舎に引っ越して14年。
加奈子が一度も町を出ることを考えなかったのは、ここが気に入ったからではない。
他に行く場所がどこにもなかったからだ。
野口さんの家までは歩いて7、8分ほど。
歩きながら、様々なことが頭の中をよぎった。
小さい頃から、ふとした瞬間に自分を見失ったような気持ちになり、怖くなってしまうことがあった。
どうしてそうなるのか、わからない。
自分の居場所を探しつづけて、39年。
今、ここが自分にふさわしい場所なのかどうかも、わからない。

9歳の年の夏休みのことだった。
父が病気で亡くなったため、加奈子は兵庫の田舎町に居る祖母の家に預けられていた。
ある日の夕方、加奈子は親戚のヒロ坊という子供の家に枝豆を届けるよう、祖母に頼まれる。
ヒロ坊の家までは歩いて7、8分ほどだが、あたりはすでに薄暗く、
加奈子はさっさと届けて走って帰ろうと思い、急いだ。
ぞっとして立ち止まったのは、神社を通り過ぎたあたりだった。
道に迷った、と思った。何度も通ったはずの道、間違えるはずのない道。
すぐに引き返してみると、通ってきた道は間違ってはいない。
では、どうして迷ってしまったのか…?


635 名前:2/3 投稿日:04/06/15 02:36
再びヒロ坊の家に向かって走り出したとき、ふと妙なことに気がついた。
周りの見慣れた家々からは明かりが漏れているのに、物音ひとつしなかったのである。
道には人影すらなく、遠くの列車の音も、犬の鳴き声もしない。
町は死に、音のない世界の中に沈みこんでいった。
いやだ!と加奈子は叫び、夢中で走った。
どうやって祖母の家に帰り着いたのか、覚えていない。
玄関で祖母が加奈子の名前を叫んだ瞬間、頭の中でパチンと何かが弾ける音がした。
そのとき、すべての音が元に戻った。

ふと我に返ると、何かがおかしい、と気づいた。
昔のことを思い出していたのはつい1分ほどの間だった。
それなのに、さっきまで目の前にいたはずの町の人々がいなくなっていた。
周囲の建物もそのままなのに、どこを探しても人の姿がない。
何の音も聞こえない。聞こえるのは自分の呼吸の音だけだった。
加奈子は走り出した。
車も自転車も通っていない。揺れている風鈴の音も聞こえない。
疲れているせいだ、と加奈子は思った。
一瞬、今居る場所に現実感がなくなっただけなんだ。今にもとに戻る。
現実感が戻ってくる。そうでないとしたら、これは夢だ。
今に、子供のころのように、あのパチンという音が頭の中で弾けるはずだ。
あの音さえ聞こえれば、全部元通りになるんだ…
だが、いくら待ってみても、あのパチンという音は聞こえてこなかった。


636 名前:3/3 投稿日:04/06/15 02:37
あれから何週間たったのか、わからない。
加奈子は相変わらず、たった一人で生きている。
数日間、休むことなく泣き続けたが、今ではそういうこともなくなった。
消えたものは仕方がない。
こんな暮らしがいつまで続くのかわからないが、
それでも不思議に、気分は悪くない。しんとして穏やかだ。

加奈子は生まれて初めて、自分にふさわしい居場所を見つけたのだ。

長文スマソ。

 

水無月の墓 (新潮文庫)
水無月の墓 (新潮文庫)


後味悪い
(後味悪ければクリック)
読み込み中 ... 読み込み中 ...