華やかな手(曽野綾子)

33 名前:1/2 投稿日:2006/09/05(火) 18:36:10
曽野綾子「華やかな手」

黒田青志は障害者だ。
幼い頃不幸な事故により左手首を切断していた。

五年前、病床の母が青志に話があるといい呼びつけた。
曰く、あなたの左手を潰してしまったことを詫びたい、
親戚の法事に出かけるため赤子の青志を抱いて
確認不十分のまま車のドアを閉め、
その左手を挟み砕いてしまったこと、
一時は心中も考えたがそれは思いとどまったこと、
いくら詫びてもどうしようもないことだけど言っておきたかったこと……

物心ついたころにはすでに左手がないのが当たり前だったので、
そのことについて不自由とか劣等感を深く抱かなかった青志は、
「僕は今何も不自由していませんよ」と明るく答え、
それを聞いた母は「許してくださってありがとう」と
救われたような表情でかえした。
そのことは、逆に自分が成長するまでの三十年間、
母はずっと苦悩してきたのかと気の毒に思うほどであった。
父はそんな二人のやりとりを傍らで黙って聞いていた。
その告白の数日後、母は安らかに息を引き取る。


34 名前:2/2 投稿日:2006/09/05(火) 18:36:42
その三年後、今度は父が病床に伏せ、
あの時の母のようにまた青志に話があるといい呼びつけた。
曰く、お前に真実を語っておきたい。
何かしら嫌な予感を抱く青志に父は真実を語りだす。

お前が左手首を失う十ヶ月前、つまりお前が誕生した時、
妙によそよそしい産婆さんから赤子を見せられたとき、
この子は華やかな手を持っていると思った。
それもそのはず、その子の左手にはどれが欠けてもいけないほど
立派な六本の指が揃っていたのだ。

名家の出であった母は「不具者を産んでしまい申し訳ありません、
実家のほうにも会わせる顔がありません」といい、悔し涙を流した。
産婆さんにもお金を包み、口封じしてくれと頼む母を見て、
子が産まれた喜びより、世間体を恐れていると思った。
自分と母の間で、赤子に対する思いがくいちがっていた。
そして自分が仕事で家を空けている時、お前の左手首は
「不幸な事故」によって切断された……

ほんとうにただの過失であったのかもしれない。
だがこの「不幸な事故」は目撃者もないし、
自分の内に「不幸な事故」を望む心が全くなかったかといえば自信がない。
だからその責任を母に全部押し付けてしまったことが申し訳ない……
父もまた、母と同じように青志に詫び、同じように数日後息を引き取る。

青志は自分の三十年の人生を不幸に思ってはいなかった。
だが父の告白は、彼が今まで家族だと思っていた人や
それまでの人生について疑問を抱かせ、暗雲を立ち込めらせるのに十分であった。
———
自分の勝手で息子の手を潰した上に、死に際にその苦悩から解放されるために
息子にそれを押し付けるなんて最悪の両親だと思った。

 

華やかな手 (新潮文庫)
華やかな手 (新潮文庫)