失はれる物語(乙一)

895 名前:本当にあった怖い名無し 投稿日:2006/06/30(金) 23:59:25
乙一の「失われた物語」

夫婦仲の冷め切った夫婦がいた。
妻はピアノ奏者になりたかったのだが、色々あってそれを諦めた。
二人は結婚当初こそ仲むつまじい夫婦であったが、ここ数年では夫婦仲が悪くなり、
生まれたばかりの子供の前であっても顔を合わせれば喧嘩ばかりであった。

ある朝、夫は気が付くと真っ暗な世界にいた。
―体を起こそうとするが、ぴくりともしない。
腕をあげることすら出来ず、ただ動かせるのは左手の人差し指だけだった。
暫くすると誰かが左腕に触れた。
なにか針のようなとがったもので左腕を突かれ、抗議の意味で人差し指を動かすと手が離れた。
その後、また誰かの手がそっと腕に触れた。薬指に指輪の感触、妻の手だ。
妻の指は、私の左手の平に指を走らせ、「YESは一回、NOは二回。OK?」と書いた。
これで意思疎通を図ろうということなのだろうと、私は了解の意を伝えるために指を一度だけ動かした。
妻の説明では、どうやら私は交通事故にあって左腕以外の全ての感覚を失ってしまったらしかった。

この日から、私は左腕だけで生きるものになっていた。
真っ暗な世界で生きていると、どれだけの時間が経ったのかすら判らないが、
妻は毎日病室を尋ねて腕に日付を書いてくれる。
妻が今日はどんな日だったとか、様々な情報を私の左手に書き込み、私は指を動かして相槌を打つ。
また、私の退屈を紛らわすためか、私の腕を鍵盤に見立てて曲を弾くようになった。
毎日彼女の弾く曲を聴いていると、彼女の心の機敏が解る。
近頃は、心が落ち込んでいたり乱れていることが多いようだった。
腕だけの存在になってから、私は妻のことを今までのどんなときよりも愛するようになっていた。
そして何度も考えた。こんな腕だけの夫に縛られていては、彼女は幸せになれない。
彼女はまだ若いのだ。腕だけの私と違って、未来がある。


896 名前:本当にあった怖い名無し 投稿日:2006/07/01(土) 00:00:45
ある日、いつものように医師が診察にやってきた。そしてまた、私の腕に針を刺す。
チクリとしたが、指を動かさぬよう必死で耐えた。
数分の診察の後、医師の腕が離れる。恐らく妻にこのことを伝えているのだろう。
暫くの後、妻の震える指が私の手の平に字を書いた。
「ねえあなた、もう何も感じないなんて嘘よね?」
私は答えない。
「嘘よ、あなたは私を騙そうとしているんだわ。
 まだ感じるんでしょう、動かせるんでしょう。こんな冗談はよして」
私は、答えない。
「あなたが答えてくれないのなら、私はあなたと別れます」
それでも、私は答えなかった。

あれから、妻が病室を尋ねてくる回数は減った。
それでも時々尋ねてきては、私の腕に近況を語った。
私が返事を返すことはなかったが。
私が事故に遭ってからどれほどの時間が過ぎたのか、ある日妻が娘を連れてきた。
私の記憶にある娘はまだとても小さく、喋るどころか文字も書けなかった。
娘の指がおそるおそる私の手に触れて、「パパ」と書いた。
そして、そのまだ小さな手で、子猫のような動きで私の鍵盤で拙い曲を披露してくれた。

――もうどれほどの時間が経ったのだろうか。
もう私の元を尋ねてくる人間は誰もおらず、今が何年何月何日なのかもわからない。

そうして、私は闇の中で一人きり、最期の時を待つ。


897 名前:本当にあった怖い名無し 投稿日:2006/07/01(土) 00:03:34
うろ覚えなんで間違ってるとこあるかも。
あと結構エピソードはしょってる。

この話大好きなんだけど、後味がすげー悪い・・・
しかも話全体が淡々とした、殆ど感情の起伏の感じられない説明調で綴られてて
それがまた後味の悪さをかもしだしてる。
乙一は「夏と花火と私の死体」も後味悪かったな。あの話は好きじゃないんだけど。
機会があったらまた書き込ませてもらいます。

 

失はれる物語 (角川文庫)
失はれる物語 (角川文庫)